神子畑の歴史は古く、800年頃から鉱山として開拓されていたと言われています。15世紀ごろからは、金を採掘する神子畑鉱山として繁栄。1878年には銀鉱脈が発見されましたが徐々に衰退し、閉山。その後、明延鉱山の選鉱所として再生し、規模、生産量ともに東洋一と称されました。現在は、建物や機械は撤去され、鉄筋コンクリートの基礎構造物、インクライン(貨物用ケーブルカー)の軌道、シックナーが残されています。
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神子畑選鉱場は、国内有数の巨大産業遺構で、養父市大屋町の明延鉱山から産出される鉱石を選鉱する場所として栄えていました。
神子畑選鉱場は、1919年に建設され、山の斜面を利用した施設は22の階層があり、幅110m、長さ170m、高低差75mの建物は東洋一と言われていましたが、1987年、明延鉱山の閉山とともにその役目を終えました。
残された建物などは、2004年に解体・撤去され、今は基層だけが残っています。
神子畑の歴史は古く、800年頃から鉱山として開拓されていたと言われています。
神子畑選鉱場が建設される以前は、15世紀ごろから金を採掘する神子畑鉱山として繁栄してきましたが、生野鉱山の方が採掘しやすかったため、長く休鉱状態が続いていました。
1878年には、銀鉱脈が発見され、再び鉱山として復興しましたが、1908年頃から徐々に産出量が減少し、1917年に閉山。
その後、明延鉱山で優良な錫鉱脈が発見されたことで、1919年、神子畑鉱山跡地に大規模な選鉱所設備を建設しました。
大正時代以降は、明延で採れた鉱石が神子畑で選鉱され、生野で製錬されるという「鉱石の道」を形成してきました。
兵庫県教育委員会、明延(養父市大屋町)、神子畑(朝来市朝来町)、生野(朝来市生野町)は、三町に残る鉱山跡の「鉱石の道」事業の中で、神子畑選鉱場で使われてきた道具や設備、トロッコ軌道跡を保存し、当時の名残をとどめています。
神子畑ではかつて鉱山の事務所や診療所として使われていた洋館「ムーセ旧居」が移築、修復され、鉱山や神子畑選鉱場の写真を展示し鉱山資料館「ムーセハウス写真館、ムーセ旧居資料館」として公開しています。
ムーセ邸は、生野鉱山の開発のためにフランス人技師のコワニエ氏とムーセ氏を日本に招いた際、ムーセ氏の居宅として建てられた洋館です。
ムーセ邸は、生野鉱山の開発のためにフランス人技師のコワニエ氏とムーセ氏を日本に招いた際、ムーセ氏の居宅として生野銀山に建てられた洋館です。
1881年、ムーセ氏が日本を去った後は神子畑鉱山の事務所として生野銀山から神子畑に移築されました。
神子畑選鉱場が閉鎖され、現在はムーセハウス写真館・ムーセ旧居資料館として、明延鉱山や生野銀山、神子畑鉱山の歴史の解説や資料を公開しています。
ムーセ邸の正面には、樹齢約200年の百日紅(さるすべり)が植えられており、兵庫県内でも有数のサルスベリの巨木で、兵庫県の天然記念物に指定されています。
明治のはじめに神子畑鉱山から生野の精錬所への鉱石運搬のための道路が必要となり、神子畑~生野間の16.2kmに馬車道(鉱山道路・鉱石の道)が建設され、多くの鋳鉄橋がかけられました。
神子畑鋳鉄橋はそのうちの一つで、1885年、馬車道(鉱山道路・鉱石の道)が神子畑川を横切るときに架けられました。
神子畑から生野間の馬車道(鉱山道路・鉱石の道)には、当時それぞれ構造の異なる5つの橋が架けられていましたが、現存する鋳鉄橋は、神子畑鋳鉄橋(橋長16mの一連アーチ橋)と羽渕鋳鉄橋(橋長18mの二連アーチ橋)の2つだけとなり、ともに美しい洋式橋の姿を残しています。
神子畑鋳鉄橋は、現存する鋳鉄橋としては羽淵鋳鉄橋とともに最古のもので、日本に現存する鉄橋としては3番目に古いとされていますが、1番目に古い1873年に架けられた大阪の心斎橋は錬鉄製であり、2番目の1878年に架けられた東京の弾正橋は錬鋳混用であるため、神子畑鋳鉄橋は全鋳鉄製の橋としては日本最古の橋といえます。
2018年に撮影した写真
2004年3月 神子畑選鉱場の解体・撤去前に撮影した写真
2004年8月 神子畑選鉱場の解体・撤去工事中に撮影した写真
2005年 神子畑選鉱場の解体・撤去後に撮影した写真
2010年に撮影した写真