明延鉱山は、日本有数の錫を産出する鉱山でしたが、1987年に閉山し、現在は観光坑道として保存、公開されています。明延鉱山、神子畑選鉱場、生野鉱山を結ぶ鉱山トロッコ電車は、通称「一円電車」と呼ばれ、1987年の廃線まで鉱石と乗客の輸送に活躍していました。2010年10月から一円電車の体験乗車が行われています。
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養父市大屋町の山中にある明延鉱山は、日本有数の錫を産出する鉱山でしたが、1987年(昭和62年)に閉山し、現在は観光坑道として保存されています。
明延の歴史は大変古く、飛鳥時代には開山されていたと伝えられ、奈良東大寺の大仏(奈良の大仏)鋳造にも明延産出の銅が多量に使用されたと言われています。
明延鉱山は、銀山、銅山として盛衰を繰り返してきました。明治に入ってからは官営(国営)となりましたが、1896年(明治29年)に三菱に払い下げられ、海外の新技術を導入した地質調査、経営の近代化が促進され近代鉱山として発展しました。
1909年(明治42年)には新たに錫鉱が発見され、「日本一の錫の鉱山」としての地位が確立され、銅、鉛、亜鉛など多鉱種を産出、国内有数の鉱山として発展しました。
大正時代以降は、明延で採れた鉱石が神子畑で選鉱され、生野で製錬されるという「鉱石の道」を形成してきました。
しかし、価格の下落、海外からの輸入が増大した事により閉山を余儀なくされました。現在でも、大量の鉱脈が残っていると言われていますが、地下坑道の大半は水没していると言われています。
明延鉱山の一部は「明延探検坑道」として内部の公開を行っています。
明延鉱山、神子畑選鉱場、生野鉱山を結ぶ鉱山トロッコ電車は、通称「一円電車」と呼ばれ、鉱石と乗客の輸送に活躍していました。一円電車は正式には「明神電車」といい、1945年(昭和20年)に敷設され明延鉱山閉山の1987年(昭和62年)まで運行されていました。
多くの電気機関車・客車・バッテリーカーなどは、養父市立あけのべ自然学校や明延鉱山、生野銀山、道の駅あさごなどに保存されています。
2010年10月からは、毎月第1日曜日に動態保存が行われることになり、2017年3月には、富山県の立山砂防工事現場で活躍したディーゼル機関車が1両追加され、2017年4月に運行を開始しました。
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